かすかな輝きで存在を主張
昼間には見つけることが難しい蝋燭(ろうそく)の明かりが、夜になると遠くからでも見えるように、
光の作り出す空間は絶対的な量ではなく、相対的なバランスに支配されている。
強い光で照らし出せば、かえって見えなくなるものもある。
廃虚という空間そのものが、そんなバランスの中に、ひっそりと宙に浮いた存在なのだろうか。
私が廃虚から感じる美しさや魅力は、例えばそれが観光資源として認められ、多くの人が訪れるようになると消えてしまう。
闇の中で美しく見えるものが好きだ。光の届かない深海のような洞窟や廃虚。
かすかに受け止めた光の中で、自分の存在を優しく主張するガラスや氷。
その輝きは暗闇で増幅する。
東京でカラー作品の個展を終えたばかりの1988年の夏。
群馬県の小串硫黄鉱山跡で、撮影のために木造の廃屋に入った。
穴が開いた床板の隙間から、かすかに光が漏れている。
這うようにして床下の薄暗い空間に入り、光を集めたガラス瓶を見つけた。
古ぼけてくすんだ淡い青と茶色の瓶が、光を透かして浮かび上がっている。
その美しい色彩にはどちらかというとカラー作品への期待があり、何種類かのカラーフィルムと、モノクロの両方を露光した。
現在はカラーで作品を作ることはほとんどないが、当時はモノクロを越える表現を求めてさまざまな技法を試していた。
少しずつ進化する感光材料が、自分の作品に新しい可能性を与えてくれると考えるのはごく自然なことだった。
そして現像したカラーフィルムを見ると何かが違う。
コントラストや色の偏りのせいかもしれないと何度かプリントするが、カラーの中に自分が感じたものがない。
カラーでのプリントをあきらめてモノクロのネガを仕上げ始めると、少しずつ見えてくるものがある。
モノクロのネガに意識を集中し、瓶を一本ずつ焼き付けていく。
色彩を排除して、あるいは諧調に置き換えてモノクロにする行為ではなく、
記憶の中を探りながら、諧調を生み出していくことが必要だった。
カラーとモノクロ、どちらが優れているとかどちらが新しいとかいうことではなく、それぞれに適した表現がある。
自分が求めているものが、色彩の奥に見えるものだと気づき始めたのはこの頃かもしれない。
作品を仕上げたのは2000年。撮影から10年以上経っていた。